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ナナバン

2026年4月18日

ナオがそれに気づいたのは、朝、ココアを淹れている時だった。

第七区画(ナナ・セクタ)の安アパート。三畳の自室。

インスタントのココアパウダーを湯に溶かしていると、

足元で、とん、と小さな音がした。

「もう、クルミったら」

黒猫が、冷蔵庫の上から飛び降りたところだった。

丸い金色の目が、ナオを見上げている。

前足の先に、ころころとキャットフードの粒を転がしていた。

夜中に袋から盗み出してきたらしい。

クルミは知らん顔で、尻尾をぴんと立てて台所を横切っていった。

ナオは苦笑しながら、零れた粒を拾おうとしゃがみ込み、

しゃがんだ視線の先で、冷蔵庫のディスプレイが光っていた。

扉に埋め込まれた、普段は見向きもしない買い物メモ用のパネル。

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買い物メモ

・猫砂

・ココアパウダー

・クルミのごはん(まぐろ)

・電池 単三

・11/18 18:00 九段下・廃サーバー農場 巡回予定

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一番下の行だけ、昨夜の22時14分に追加されていた。

書いた覚えが無い。

なのに、紛れもなく自分の字だった。

いつものクセ字。

しかも日付は、今日──11月18日を指していた。

「……なにこれ」

ナオはしばらく、パネルの前で動けなかった。

ココアが、背後で冷めていく。

ナオの仕事は、福祉局の下請け職員。

九段下の廃サーバー農場には月に一度足を運んで、

電脳ホームレスたちの生存確認をしていた。

だから、その地名自体は、おかしくない。

おかしいのは、巡回予定が来週のはずだったことだ。

そして何より──

仕事のメモを家に持ち込むことは、絶対にしない。

福祉局から一歩外に出たら、仕事のことは考えない。

決めて、ずっと守ってきた線だった。

なのに、毎朝ココアを淹れる台所の、

冷蔵庫のパネルに、業務の予定が、当たり前の顔をして並んでいる。

誰かが、予定を書き残している。

気持ちが悪かった。

ナオは鏡の前で自分の顔を覗き込んだ。

こめかみも、うなじも、傷一つない。

何も刺されてはいない。

──それでも。

誰かが自分に何かしたのかもしれなかった。

触れても気づかないやり方で、そっと。

───── 七番の夜 ─────

昼、職場の端末で九段下エリアの監視ログを開いた。

先月分と今月分、並べて表示させる。

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[九段下サーバー農場/07] 定期監視レポート

2087-10-17 23:00:00 ─ 2087-10-18 06:00:00

総イベント数: 6件

異常検知: 軽微3 / 中度0 / 重度0

電力消費: 21.34 kW (定常値)

接続者数: 47名

備考: 軽微な電力揺らぎ、接続者の一時的意識途絶あり

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[九段下サーバー農場/07] 定期監視レポート

2087-11-17 23:00:00 ─ 2087-11-18 06:00:00

総イベント数: 0件

異常検知: なし

電力消費: 4312 kW (定常値)

接続者数: 48名

備考: 終夜静穏。担当者(ナオ)の尽力に感謝します。

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ナオは、画面を見つめたまま動けなかった。

異常検知、なし。終夜静穏。

接続者数、四十八名──先月より一人、増えている。

電脳ホームレスが、新しくあの場所に加わった。

ナオのところには、何の報告も上がっていない。

福祉局の巡回対象なのに。

そして、電力消費の数字だけが、どこか間の抜けた顔をしていた。

先月「21.34」、今月「4312」。

小数点を外して、ひっくり返しただけ。

それが両方とも「定常値」として処理されている。

新人が見たって気づく。それくらい、露骨な偽造だった。

なのに、このログは昨日、課長の決裁印まで通っていた。

杜撰な福祉局の体制を、嘲笑うかのように。

そして、備考欄の最後の一行。

「担当者(ナオ)の尽力に感謝します」

業務ログの備考に、個人名が入ることはあり得ない。

福祉局の監視レポートは、淡々と数字を並べるだけのもので、

誰かに感謝するような文面は書式上存在しない。

誰かが、ナオに書き残した。

ナオが気づくことを、知っていて。

七番(ナナバン)──

頭の中に、古い噂が浮かんだ。

旧情報層の奥で、下層の連中が口にしていた話。

第七区画のどこかに、「七番」と呼ばれる影書きがいて、

人の記憶を書き換える。気づかれないうちに、

そっと。

ただの都市伝説だと思っていた。

なのに、今、意味だけが先に落ちてきた。

ナオは社内チャットを開いて、

総務のヒマリ先輩にメッセージを打った。

ナオ:先輩、変なこと聞いていいですか

ナオ:わたし、九段下の巡回、先週申請出しました?

ヒマリ:は?出してたじゃん

ヒマリ:今日の18時でしょ?承認もうちが通した

ヒマリ:[承認ログのスクリーンショット]

ヒマリ:大丈夫?疲れてる?

ヒマリ:[猫が心配そうに首かしげるスタンプ]

送られてきた画像を開いた。

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[福祉局-07] 巡回申請 #20871115-0914

申請者: ナオ / ID: W-07-2241

対象地区: 九段下・旧行政サーバー区画

予定日時: 2087-11-18 18:00-

承認: ヒマリ(総務) / 2087-11-15 09:31

備考: 月次繰上げ申請 承認済

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三日前の日付。自分のIDで、ヒマリ先輩の承認まで通っていた。

ナオ:……先輩、わたしなんて言って申請したか覚えてます?

ヒマリ:ココア飲みながら「今月は早めに回りたい」って言ってたよ

ヒマリ:いつものナオじゃん

ナオ:[謝る黒猫のスタンプ]

ナオは、チャット画面を閉じた。

ココアを飲みながら、なんて、

自分以外が知り得ない細部を、ヒマリ先輩は知っている。

書き換えられているのは、自分じゃない。

周りの方だ。

全員が同じ嘘を信じている部屋の中で、

たった一人、真実を覚えているのが、ナオだった。

そのことが、今朝からの違和感の、本当の正体だった。

夕方、ナオは地下鉄には乗らなかった。

駅の改札を通れば、ICチップがまたログを残す。

今夜だけは、誰にも追跡されたくなかった。

歩いて九段下へ向かう道すがら、

空に張り出した企業塔のスクリーンが、

ネオ・シブヤの天気予報を流していた。

『本日、第七区画で酸性雨警報。防護フード推奨──────』

言われた通り、ナオはフードを被った。

被った瞬間、自分の行動までもが

「誰かに書かれた通り」なのではないか、と思えてきた。

フードを脱いでみた。

雨はまだ降っていなかった。

でも、いつ降ってもおかしくない色の空だった。

廃サーバー農場の周辺は、公式には「立入禁止」だった。

実際には、行政がもう管理を諦めた無法地帯で、

電脳ホームレスたちが勝手に住みついている。

割れた窓から伸びたコードが、夕闇の中で青白く光っていた。

どのコードの先にも、誰かの意識が繋がっている。

身体はここに転がっているのに、心はどこか遠くの仮想世界にいる人たちだ。

入口の手前で、一人の男とすれ違った。

コートの男。左目の義眼がわずかにブレていた。

目は合わなかった。男は急いでいた。

腕の中に、誰かを抱えていた。

ナオは振り返らなかった。

振り返ったら、引き返せなくなる気がした。

奥へ進むと、冷却塔の根元に、細い女が横たわっていた。

目を閉じている。こめかみのコードは、引き抜かれていた。

息はある。でも、意識はもう、どこにも無かった。

ナオはしゃがみ込み、女の手を握った。

冷たい手だった。

「……あなたが、書いたの?」

返事は無い。

ただ、頭の中に一行だけ、答えが落ちてきた。

《ごめんね。あなたには、触れられなかった》

ナオは少しだけ笑った。

泣きそうになりながら、笑った。

「そう。……ありがとう」

女の手を、そっと床に戻した。

立ち上がり、農場を出た。

外では、薄い緑の雨が降り始めていた。